東青山


〇 コーヒーのつくり方(大坊珈琲店式)

2019. 3. 18 [日用品:本]
 

コーヒーのつくり方(大坊珈琲店式)

 コーヒーのこと、だけでもなさそうな


 アンデルセンの童話ではないけれど、「だれもが忘れてしまわないうちに聞いておく値打ちのあるお話」というものがままあって、この本もそのうちのひとつかもしれません。『コーヒーのつくり方(大坊珈琲店式)』です。
 アンデルセンには「小夜啼鳥」という有名なお話があります。そのなかに細工鳥がでてくるのですが、機械仕掛けのその鳥はせいかくに何度も同じ歌を歌う代物です。もちろん細工ものなのですからその中を開けてみれば、これはこうだ、と説明がつくものですし、ことのいっさいはすでに決まっていて、かならずその歌を歌うようにできています。いつだって変わることはありません。だから人はそれらの歌をおぼえたりもできますし、そらで歌うこともできるようになります。ただ、細工鳥には欠点があります。つまるところつくりものですからいつかはこわれてしまう。それは部品をかえるなり直せばいかようにもなりそうなものですけど、もっとやっかいなのは、ネジを巻く人がいなければその鳥はなにも歌うことはできないというわけです。では、ほんものの小夜啼鳥はどうでしょう。いったいどこを飛びまわって、いつその歌声が聞けるのか、かりに聞けたとして、はて次になにを歌いだすのか、前もってわかることなどなにもありません。あたりまえのことです。だからこそ、こよなくいとおしく、人は小夜啼鳥のゆくえを追いもとめ、その歌声のとりこになるのでしょう。お話のなかで、小夜啼鳥と細工鳥の両方の歌声を聞いた人がこう言っています。「さいくどりだってなかなかいい声で歌うし、たしかにさよなきどりと似てはいるけれど、なにかが物足りない」と。
 このお話のあるじはとある国の王様です。ふいに小夜啼鳥がいなくなったあとのこと。それでもいつも決まって歌ってくれる細工鳥の歌声には満足していました。あるときその王様が病気になって寝床に伏せてしまいます。夜な夜な耳もとで聞こえる死神の声におびえるようになり、「音楽をやってくれ、太鼓でもなんでもどんどん叩いて、死神の声をかき消してくれ」と叫びます。けれど死の淵にいる王様のことを家来たちはもうあきらめてしまっている始末。そばには細工鳥のネジを巻く人もいません。歌わない小鳥はただの飾りです。そこに、はからずも小夜啼鳥がやってきます。聞こえてくるのはほんものの歌声です。するとどうでしょう、小夜啼鳥の歌声はみるみる死神の声を遠くへと追いやってしまい、王様の血の気はどんどん戻っていきます。「ああ、さよなきどりよ。ありがとう、ありがとう。おまえはなんてうつくしいのだ。それにひきかえこのつくりものときたら」王様は窓辺にあった細工鳥を捨ててしまおうとします。と、そのとき「お待ちください」小夜啼鳥がさえずりはじめます。「たとえつくりものでも、いつもあなたのためにたくさんの歌を何度も歌ってくれていたではありませんか。いつまでも大切に、おそばに置いておいてあげてください」「ではおまえは」王様は言います。「わたしは、わたしが来ようと思ったときにわたしのほうからあなたのそばにまいります。そして、わたしの歌いたいとき、わたしはわたしの歌を歌います。たとえば、ほら」
 大坊さんはさいきん、いろんなところを飛びまわってコーヒーをつくってらっしゃるそうです。その大坊さんが、まだ南青山に喫茶店を持っていらっしゃったころのこと。お客さんの足が一息ついたすきまのような時間です。ある日は昼下がりでした。まるで止まり木にとまったみたいにカウンターのなかの隅っこに腰をおろし、自分のつくったコーヒーの小さなカップを手に包んで、一口二口口にしながら、ときおり空を見つめてらっしゃった。テイスティングでしょうか。その光景をたまに目にすることがありました。コーヒーをおとすすがたよりも、そのかたわらのほうに「つくるひと」という言葉が浮かんできたものです。じっと、見ていました。だってほんとうの「つくるひと」などそうめったにお目にかかることなどないのですから。同じものを同じように、いつも丁寧に、つくりのしっかりしたものをつくっているひと、そのはずです。それでも説明のつかない、なにかが物足りない、なんて思ってらっしゃるのかしら、こんなに美味しいコーヒーが目の前にあっても、です。人が、生活のことを「日々」と名付けた理由、一日一日、層が重なってゆく感じ、そういう層の土台のうえに大坊さんはちょこんと座ってらっしゃった。「なにか」を追わないわけにはいかない、つづけることの美しさとむずかしさにまぶしかったおぼえがあります。
 大坊さんのつくるコーヒーにはナンバーだけがつけられています。作曲家のように。ねえ、大坊さん、「いつも」とはいったいなんなのでしょう、「ほんもの」とはいったいなんなのでしょう。大坊さんはそのことをちょっとだけ歌って聞かせてくれているようです。たとえばこんなふうに。「一滴一滴、タチッタチッと」「徐々に滴が連なるように、コロコロと」「それから細い糸のように、ツーと注ぐ」「もっとゆっくり・・・」「いそがないで・・・」かとおもえば「熱くしようが、薄くしようがオーケー、オーケー」大坊さんの日々にはもちろんかなわない、でも、マニュアルのように、おぼえることではないような、たとえば楽譜を読むように、そのことでそれぞれの演奏家の奏でる音色はちがうように。大坊さんの声に耳を傾けていると、わたしのコーヒーのつくり方をつくれそうな気がしてきます。手垢で汚れるほどにそばに置いておいてほしい、大坊勝次著『コーヒーのつくり方(大坊珈琲店式)』、ぜひ読んでみてください。


 書名  コーヒーのつくり方(大坊珈琲店式)
 著者  大坊勝次
 英訳  マイケル・エメリック
 編集  久保田夏実
 造本  立花文穂
 発行  東雲書林
 判型  188 × 142mm
 頁数  52頁(和文29頁、訳文23頁)
 価格  4,000円

コーヒーのつくり方  

 

〇 知られざる萬古焼の世界

2016. 8. 8 [日用品:本]
 

萬古焼きの本

 萬古の人と、本


 民のための民のこしらえる器、「民陶」。ふだん馴染みのない言葉の背後には萬古焼の源がある。
 庶民のためのやきものは三重県四日市で産声をあげた。江戸を発露に「古萬古」、「有節萬古」を経て明治に入るとその窯業はひとつの『産業』として敷衍し地場に根付くことになる。平板なもの言いをかりるなら「フロンティア精神」がその『産業』を支えた。フロンティアに活路を見出だす理由は、四日市の周辺に京都や瀬戸、美濃、常滑など既存の窯場が犇めきあっていた必然がある。しかし陶土の調達もままならない環境の裡からどのように「萬古」然の独自性をむくむくと発展させ、その地に拘泥せず海の外にまで裾野を広げることになったのか。この本はおもに明治から昭和を跨いだ成長期における「萬古」の力と知恵、その変遷を鮮やかに開陳する。
 書いたのは、内田鋼一。四日市を根城に作陶する孤高の人だ。内田はとくに『産業』期における萬古の何にも媚びない造形美に惚れる。伝統を凌駕し、あくまで生活圏内から引き出された自由な創意の虜になる。内田も四日市で築窯し独立を果たしたが、数奇な所産を遺した名もなき陶工たちの眼が自身の眼と重なり合うにつれ、現代萬古の風前の灯火に危機感を抱くようになる。四日市への恩返しにも想いを馳せながら、そして何より「萬古」を愛するがゆえに、昨年、まるで火入れのようにいきおい私財を投げ打って萬古オンリーのミュージアムをこしらえた。デザインを視座に収集し、アーカイヴするプロセスはまだ途上にあるが、萬古がそうであるように「やきものになにができるか」を問いつづけ、発信する拠点となっている。
 その彼が、たとえば萬古を「民陶」に括ったといえる秦秀雄や萬古のデザインに多大な影響を与えた日根野作三ら「萬古のキーパーソン」を語り、たとえばデザイナーの皆川明や小泉誠、蒐集家の舟橋健たちとの対話を積み重ね、膨大な写真資料を携えて、アングル、サイズ、ポジションを自在に変えながら萬古の魅力の伝播を試みる。やきものをこしらえる人がアツアツの一冊をこしらえたのだ。タイトルは「知られざる萬古焼の世界」。創意工夫から生まれたオリジナリティと後人へのヒントが真摯に刻まれている。


 この一冊は

 三重県四日市市、萬古工業会館にある「BANKO archive design museum」の公式書籍である。イラストを交えた萬古ヒストリーや、萬古そのもののカタチや色、食の設えなどなど、眼にも愉しい一冊になっている。

 作品名     「知られざる萬古焼の世界
            ー創意工夫から生まれた
                 オリジナリティー」
 著者      内田鋼一
 装幀/デザイン 山口信博、細田咲恵(山口デザイン事務所)
 写真      伊藤千晴
 編集      藤田容子
 編集協力    小坂章子
 印刷/製本   大日本印刷株式会社
 発行      誠文堂新光社
 サイズ     247 × 185mm
 ページ     240頁
 価格      3,780円

知られざる萬古焼の世界   

 

〇 Leaves 立花文穂作品集

2016. 5. 18 [日用品:本]
 

立花文穂の作品集Leaves

 弟


 きみのことは知りすぎているひとである。だからますますわからないことがふえつづける。きみがこれからどこへ行くのかぼくにはわからない。わからないのがたのしいときみのことを思えるようになるにはこれだけの時間が必要だったのか、積み重なった紙々をかたわらにお茶をすすっている。父さんが几帳面にたくさんの紙を抱えて断裁機にセットして刃を下ろす、あのうしろ姿も遠い記憶だ、そうだろ。きみの背中を見ながら、たまに声をかけるよ、お茶でも飲みにいこうと。もっと見えるように次の本を掲げてここにいるよと手を振ってくれ。


 Leaves

 立花文穂のこしらえる本はおわらない。おわりかたを知らないのか、おわらせないのかわからない。はじめかたを知らないのか、はじまりがどこなのかもわからない。そんなものつくることはなかなかできそうにない。仕様もなく仕方がないことなのだ。
 彼はひとたらしである。人間も時間も空間も巻き込んだ巻物だ。巻かれることをこばんでこばんでこしらえた世界。ぺらぺらとはめくれそうにない。

 作品名  Leaves 立花文穂作品集
 作    立花文穂
 印刷製本 シナノ書籍印刷
 サイズ  B5判変型(240 x 200 mm /並製本糸縢り)
 ページ  320頁(オールカラー)
 発行   誠文堂新光社
 価格   3,780円

Leaves 立花文穂作品集    

 

〇「風下」立花文穂

2012. 3. 6 [日用品:本]
 

立花文穂の作品集「風下」350部限定

 本を作るということ


 弟から、家のことを題材にして本を作ってみる、と聞いたとき、ああ、お前のほうがとうさんの背中にぐんぐんちかづいていくのだな、そう思ってふと、私は遠くにいるような気がした。
 私がまだ小さかったころ、父に、「ぼくがもし小説とか書くようになったら本にしてね」と言ったことがある。そのことを急に思い出したのは、父が倒れたときだった。父がなんと答えたかは覚えていないけれど、病室で眠っている父の手を握ってみたときそのことを思い出したのだった。すっかり忘れていたことばなのに、それ以来、紙に書かれて貼られたみたいに、ちがう方向を向いていた私の目の前でひらひらめくれあがっている。
 父は製本屋を廃業した。工場も手放した。彼が愛してやまなかった、本を作るということが、彼の手からぱらぱらと滑り落ちて、風に飛んでいった。
 二十のとき、上京する私に父はこう言った。「夢ばっかり追っかけて、のたれ死ぬんじゃないぞ。原稿用紙は食えないんだからな」あのとき父は断裁機で紙を切っていた。背中を向けたまま、大きな紙の束を切り分けていた。
 父は紙を食って生きてきたのだ、そうおもう。

 私の弟であり、美術家でもある文穂が、父の工場のなくなってゆく過程を見つめながら、散っていく紙の記憶を捕まえた。束になったそれらの紙片を自らが製本、私は小さな文を寄せた。立花文穂の最新作品集「風下」。本を作るということが、頁を開くと匂ってくる。


 この本は

 作品名    風下
 作      立花文穂
 タイトルと文 立花英久
 製本     立花製本(広島県広島市)
 印刷     中本本店/佐々木活字店
 発行     DNP文化振興財団/広島 球体編
 協力     バーナーブロス
 仕様     200×245mm、糸かがり綴じ104頁、
        カバー付、貼込図版有
 価格     4,320円(初版限定350部)

「風下」立花文穂