東青山


〇 2012 CALENDAR

2011. 12. 9 [日用品:カレンダー]
 

立花文穂のカレンダー

 日付ける、ということ


 来年がやってくる。否が応でもせまりくるのである。
 今年の私は、カレンダーを振り返るたび、気持ちの整理がつかないままに日々が通り過ぎた、そう思わざるをえないのだった。向かうべき地点の定まらないまま、うろつく心をなんとかしずめながら、けれど締めくくりぐらいは、きゅっ、と結んで、抽き出しにおさめたい。たとえば、やってくる年に早々と印を付けてみる。何かがやってくるのを待つのではなく、私から迎えにいこう。私は思いつくかぎりの日にまるを付けてみた。すると、
 生きねばならない、と感づいたのだった。


 このカレンダーは

 すこし立ち止まって「みる」のもいい。持って出かけて「みる」のもいい。延ばせば短冊みたいに、手折れば文庫ほどの。
 書いて「みる」カレンダー、2012。

 商品名 2012 CALENDAR
 寸法  縦 297mm × 横 100mm
 制作  立花文穂プロ.
 価格  864円(100部限定)

 

〇 2011 CALENDAR

2011. 1. 11 [日用品:カレンダー]
 

立花文穂のカレンダー

 カレンダーのこと


 ある哲学者がこんなことを言っていた。「他者の存在は私の自由を束縛してくるものだ。しかしその自由を支えてくれているのも、その他者にほかならない」
 とおいむかし、机の前に分厚い学習参考書があって、その背文字にはでかでかと『自由自在』と書いてあった。私はその名前に圧倒され、何度となく金縛りにあったものだ。「自由」どころか本を掴むこともなく、沼に沈む夢ばかり見ていた。だからいまだに、「自由」とか、「自在」とか言われると、いたたまれない気持ちになるのはそのせいかもしれない。今、目の前に「自由」が差し出されたとしても、私はやっぱり呆然と立ち尽くしたまま何から手をつけていいかわからなくなるのだろう。まして「自在」などという腕もそう簡単に身に付くものでもない。そんなことはわかりすぎるぐらいわかっている。私はそもそも「自由」というものが、私の手に負えないぐらい大きいものだと思いこんでいる節がある。これがいけないらしい。妻はそれを「期待しすぎなのよ」と笑う。
 ここに、宛名のない封筒がある。封を切ると、カレンダーがふたつに折り畳まれていた。最初はそのまま切手を貼ってトモダチに送ろうと思った。だけど送られた側は「わたしの一年を束縛でもする気?」なーんて言いはしないだろうけれど、結局自分で開けてしまった。
 私はなるべく紙とペンでモノを書くが、その紙というのがチラシの裏である。いつでもポケットに突っ込んでおけるよう、チラシを四つ切にして使う。まっさらな大きな紙を前にするとやっぱりどきどきするし、はなから何も期待できそうにないその程度が私にはちょうどいいのだった。ゆく年の書き散らかしたチラシの山のてっぺんにそのカレンダーを載せてみる。ぴったり大きさがいっしょだった。
 今の時代、カレンダーを「自己管理」に使うかどうかはさておいて、何かの折りにつけ、気づけば目を向けている、縛られたくないくせに時計といっしょ、それがカレンダーだろう。あれ?今日は何曜日だっけ、締め切りまであと何日だっけ、はたまたそこに「大安」なんて書かれていれば、ほっ、とすればよろしい。
 しかし、このカレンダー。カレンダーがカレンダーじゃなくなっていることをどうやら望んでいるようだ。私は眺めているうち、そんなような気がしてきたのだった。
 「カレンダー」という名前も、メモ帳みたいな大きさも、これは私の「自由」を束縛する。しかしその「自由」を支えてくれるモノ、なのかもしれない。









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