東青山


〇 踏み台

2012. 1. 23 [日用品:家具]
 

檜の四方転び踏み台。

 高いところにあるもの


 まだ小さかったころ、父の背中に乗ってビスケットの缶を箪笥の上から取ったことがある。まんなかに穴のあいたビスケットの写真が印刷された、覚えのある缶だったので、私は父にビスケットが欲しいから取ってくれと頼んだのだった。けれども、自分で取ってみろと言われて、かんがえたあげくに箪笥のひきだしをあけ、はしごみたいによじ上ろうとしたのだけれど、あぶなげだったか、見かねた父は四つん這いになってくれ、けっきょく私は父を踏み台にしたものの、それでも手が届かないからしまいには泣いたのだった。となれば、箪笥の上からビスケットの缶を取ったわけではないことになる。それでもその缶の中身は今でもおぼえているのだ。開けると色とりどりの糸がしまってあったのだから。
 と、そんな小さかったころの話を事細かにおぼえているか、といえば、おぼえているわけがない。天井に近いところにビスケットの缶がおさめてあったことも、たしかにあの中に母が洋裁で使っていた糸が入っていたことも、父の背中を踏み台にした足の裏の感触も、どれもきちんと記憶のうちにある。だから、それらをつなげてみると、またたくこんな話が思い浮かんだ、というわけだけれど、それでもあったか、なかったかが、作り話のはずなのになぜかあやふやになりはじめる。なるほど記憶の断片というやつは、あらゆるところから不意に磁石みたいに私のほうへところころ近づいてきて、かちゃっ、かちゃっ、と引っ付くようにできているのだろうか。それこそそれらをビスケットの空き缶かなんかにしまっておいて、忘れたときのために箪笥の上にでもおさめておけばよいのかもしれないけれど、それもまた、大なり小なりきっと記憶の断片と化す、そうにちがいないのだ。
 それにしても私は、父を踏み台にして、それでも足らずに背伸びまでして手を伸ばしたという、たしかに記憶の糸口はつかんではいるものの、はたしていったい何をこの手につかんだのか、いっこうに思い出せないのだった。


 この踏み台は

「四方転び」という構造をもった踏み台です。「四方転び」とは、四本の脚をすえ広がりに張り出させることで、安定し、重さにも耐えうる、それからなんといっても倒れにくい、まさに踏み台としては理にかなったかたちのこと。
 樹齢二百年以上の、木目の詰まった貴重な木曾檜を無垢のまんまでこしらえたので、手入れをしながらご愛用いただければ、永ーく高ーいところにまで手が届く、これぞ踏み台のカガミ、かもしれません。
 そもそも四方転びの踏み台は、棟梁が施主に、落成祝いとして贈るものだとききます。「すえ広がり」の置き土産なんて、「家」のお守りみたいで、こころにくい演出。しかも棟梁がこしらえるのではなく、大工としてはまだ半人前にもみたない、本番にはまったく出番のなかった弟子に、あえてその複雑な構造の「四方転び」をこしらえさせ、その初仕事を施主への贈りものとする、師弟のあいだの厳しくもこころやさしい教育の一環でもあったのです。
 木曾檜の香り、頑なな構え、ぬくもりのある由来を足場にして、すえ永くお使いいただける、それがこの踏み台です。

 商品名 踏み台
 素材  木曾檜
 製造  山一(長野県木曽郡)
 制作  東屋
 寸法  幅425mm x 奥行360mm x 高460mm
 価格  48,000円

踏み台    
 

〇 ACTP03_デスク

2011. 10. 18 [日用品:家具]
 

アーキタイプ、ACTP、荒木信雄の机

 妻の
 つくえのつかいかた


 妻は私とひと悶着あると、ひとしきりたって紙と鉛筆を引き出しから出し、机に向かうと背中を向ける。いつものことだ、と思いながらも、たとえば言い足りぬコトバは飲み込んだまま、なぜそうも冷静になって背中を向けていられるのか、こちらのほうの気がおさまらなくなる。彼女はどうやらさほど気にやんでいる様子でもない。私のほうが言い足りぬコトバでカラダは破裂せんばかりである。正せば、そこは私の机、いうなれば私の陣地、本丸である。腑に落ちない。それがまた癪にさわる。しかし、声を出そうにもなぜか胸に詰まって堪えるのは、彼女の背中を見るにつけ、私の背中のほうが異変をきたすからだった。
 平時、妻に尋ねてみたことがあった。いったい何を書いているのだ。すると彼女はこう答えた。わたしのほんらいいちばんやりたいことを箇条書きにしてランクをつける、そうすると不思議に気がおさまっていく、らしい。いつも上位にあがるのはなんと「歌手」、とのことだった。カ、カシュ?「歌手」、と文字にすると、その字面といっしょにココロまで弾む、いやなこともとたんに吹っ飛んでしまう、机からはにょきにょきマイクが出てきて、彼女の背後にはビッグバンド、君は大好きなニーナシモンばりに、となれば、私はずーっともっと後ろのほう、裏方なのだな、きっと。彼女を照らすデスクライトがなんだかまぶしく見えてきた。目がくらみ、彼女の胸の内などさらにわからなくなる。けれどもわかっていることもある。そこはそもそも私のステージなのだ。「あら、最近ぜんぜんつかってないじゃない」と妻の台詞が聞こえてきそうで、またかきむしられる気分になる。
 さかのぼって、今回の諍いの発端はいったい何だったのだろうか。妻は今や見えない客に向かって歌っているのかもしれぬ。つまらない強がりで、ほんとうに彼女が歌手にでもなったら、私はどうなるのだろう。いよいよ、裏方でもよいからここに置いてくれ、とスパンコールのドレスの裾にしがみついたりするのだろうか。その机、本、鉛筆だってノートだって、どうぞ自由に使うがいい、ぜーんぶ君のものだ。鉛筆が、からからん、と鳴った。それでも聞いてみたい、私の格付けは、いったいどこらへん、いや、何番ですか。
 たまに男があたふたしてどうすればよいかわからないことになったとき、夜空を見上げたって私の星なんて見えやしない。そんな真っ暗なさなか、ふと男は女のほうを見つめる。するとほら、その目のなかに星がきらめいているのだった。とある作家に聞いたことがある。その女こそが、「妻」というものらしい。遠のいていく彼女の背中を想像すると、私の背筋は、ぞっ、とするのだった。

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