東青山


〇 お酢入れ

2016. 4. 11 [日用品:食卓]
 

波佐見のお酢入れ

 餃子の包み方


 繰り返しの所作を目前に照らし出し、注視すればするほど目が離せなくなるように。
 ずっと見ているとそのことがそのことじゃないことに変わっていき、何か別のもっとほかにわけのあることに見えはじめてほしい。そもそもそのことがなぜ繰り広げられているのか、もっと言えば何がそこに閉じ込められようとしているかもわからなくなればなおさらいい。
 本来そういうことじゃなかったような、あるとき、すべてはまちがっていたんじゃないか、といったようなこと、それ以前に真偽を問うこと自体が意味をなくし、目的は見失われ目的という言葉がまだ見つからなかったよき時代に戻ってふと振りかえった途端、そこに見えるものはたぶん今まで見たことのないような、それが旅、と片付けようとする言葉の旅さえもやめてしまいたい。そのときあなたは立ち止まっているはず。それこそ今まで味わったことのない感覚で、ただ単に。
 たとえば自分の名前を何度も何度も書いていくと、書き順の虚構に不安は募り、名前という言葉そのものの疑いを疑い、文字がそのすがたを忘れ去って名前が付けられる以前のわたしと向き合っていることも気づかないまま、すなわちそうした瞬間が訪れることが待ち遠しいと感じ入るまではまだ序の口ではあるにしろ、わたしはわたしから離れてみたいという欲望の皮ぐらいは摘んでいる、そうでしょ。
 その手であなたが遠い人に手紙を書いていたということ、その手であなたは大切な人の手を探しにかかっていたということ、その手を上げて大きく振っていたあなたがいたということ、そういったはるかむかしの遠い記憶が向こうからやってくることを待ち侘びて、いつのまにか、同じ方向に向かってみんな並んでいる。


 このお酢入れは

 餃子は酢だけ。醤油も辣油もいらない、と言う人がいた。
 このお酢入れは長崎県波佐見でこしらえた。同じ九州の熊本天草で採れた天然陶石が素地の、磁器である。前回紹介した「醤油差し」同様に液垂れのない切れのよさが使い勝手の看板だ。
「醤油差し」の頁をご参考にしていただきたい。
 名は「お酢入れ」だが、云ってしまえばなんだっていい。前述の「醤油差し」で量が心許なければ、ちょっと大振りな、それこそ醤油差しにもどうぞ。
 何を付けようがかまわないでしょ、とその人が言った。いちいち指図しないで、って。自由に食べたいの。叱られた。
 先の「醤油差し」と対で使えばなおさら食卓を明るくしてくれる。あ、これもまた大きなお世話、かもしれないが、焼いてもみたくなるのです。

 商品名  お酢入れ
 素材   天草陶石、石灰釉
 製造   白岳窯(長崎県波佐見町)
 デザイン 猿山修
 制作   東屋
 寸法   高81mm × 奥行92mm(注ぎ口含む)
 容量   120ml
 価格   2,052円
 

お酢入れ   
 

〇 チーズボードとチーズナイフ

2016. 2. 29 [日用品:食卓]
 

山桜のチーズボードと関のチーズナイフ

 はいチーズ


 このごろはそんなふうに言わなくなったのかしら。どこでもかしこでも容赦なくシャッターまがいの音がするようになった。この合言葉ももはや死語なのだろう。それにしてもところかまわず万事がオーケーと誰が決めたのか、「撮るよー」の合図からはじまったあのころの『一枚』っきりがなつかしいのだった。
「ところで、あの<はいチーズ>とはいったいなんだったんだろう」と友人が言った。ようはタイミングの話である。<はい>で撮影者が投げかけて、<チーズ>で被写体が応える(復唱する、という意見も捨てがたかったけれど)、そこでシャッターを切るのは<チ>の瞬間であるはずなのに、<ズ>でカシャ、その間の悪さが口角の上がった笑顔を通り越し、口のすぼんだなんだか判然としない表情に、あ、今のはちょっと、と気に喰わないまま置いてけぼりを喰らったようなときもあったと言うのだけれど、<はいチ/カシャ>と<はいチーズ/カシャ>のちがいは出来上がってきた写真が露わにするのであって、別に楽しみにしていたわけじゃないけれど、という体でそれでもなんだかんだで気にはなって見るのだけれどけっきょく写りのせいにして、おれはそもそも写真嫌いだーなんて写真の裏に焼き増し希望の名前も書き込まないまんま、思い出なんかいらないテキな面をしてみることもあった「あったあった」まあもとはといえばまるで号令のような掛け声ひとつで笑顔をこしらえようとしていたこっちもこっちなんだけど、と友人は前置いてから「しかし写真のうまさは今もむかしも数少ないシャッターチャンスであることにかわりはないよな」とあくまで被写体には責任のないことを、とりとめもなくケータイをかざす女の子を横目に見ながらそのくせ声を張って言うのだった。
 <はいチーズ>は、さりげなく差し出されるチーズに添えられた言葉で善しとしよう。「はいチーズ」そう言われて笑顔が自然と生まれればこれもまたタイミング、なのかもしれない。よって、酒もうまくなる。なーんて、友人はといえばメニューをぱらぱら開いてから「あったあった」と笑いながら店員さんを呼ぶのであった。

                        
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〇 土瓶

2016. 1. 29 [日用品:食卓]
 

伊賀の土瓶

 もうはじまってる、の?


 今年はどうなるんだろうと思っているともう一月も終わりかけていて、今年はどうなるんだろうと思いながらいつのまにか桜の咲いているところを見ているんだ、きっと。そう言えばどのあたりから「来年はどうなるんだろう」と思いはじめるのか、多分夏の終わりがすぎたあたりだろうかと思いあたると、今年はどうなるんだろうと思いながら暮らすことが一年の大半と言うかほぼそれで埋まってしまうことにはたと気がついてしまって、ああ、今年をおろそかにしておきながら来年に希望を託してしまうことを、どうやら「一年」と呼ぶ、らしい。そうやってよくもまあここまで生きてこられたなあというか、生かされてきたというか、生かしてくれたというか、どのみち他力本願なのだ。
 考えれば、なんでもかんでも道具に託すのになんだか似ているような気もする。お茶がおいしくいれられると聞き齧った急須で注ぐ茶は、ほらこの湯呑みで飲むとうまいじゃないかとか、いつもの米なのにその釜で炊かれるのを見れば、よくおかわりするわねえ、なんて言われる。フライパンや鍋、コーヒーメーカーなどなど何回も買いかえる人だっているって聞くし。今使っているものが今まさに使われているさなかにもかかわらず、あの新しくてもっとよさそうなの使ってみようかなあ、なんてよそ見して、ようは手許にあるものに愛情なんて注いでいないのだからそれに向かって「おいしく」だとか「上手に」だとか言ったところで当の相手は「わたしって、二番? 三番?」ちゃんと道具のほうに伝わってしまっているのではないかしら、となれば、おいしくもうまくもしてくれるわけがない。
 よし、今年を台無しにはしないぞ、と考えながら、いいえ、はじまってもいません、とだれかの声がしてそらおそろしいんだけど、もっとにちにち付き合いを深めて、今年のせいなんかにはしないよ、って、自分を磨く一年でありたいとありふれたことを思うに至って、年末買ったばかりの塗り椀を拭いているのだった。これで食べた雑煮、おいしかったなあ。
 でもって、目移りはじめに......。懲りないんだなあ、こればっかりは。


 この土瓶は

 三重の伊賀でこしらえたもの。先達の教え「土と釉は同じ山のものを使え」に倣い、伊賀の職人が、伊賀の土、伊賀の釉で、いうなれば伊賀づくし、「拘泥」の極みである(
「切立湯呑」参考)。耐火度の高い良質な土を荒いままに手技で成形、釉はとろりと黒飴、もしくは澄みきりの石灰。見てのとおりフォルムは同じでも、重みと軽やかさでお選びいただきたい。かわらずおいしいお茶がはいりますよ。静ひつの急須、賑わいの土瓶。使い分ければ、これ幸い、かも。

 商品名 土瓶(「伊賀の器」シリーズ )
 素材  黒飴/伊賀土、黒飴釉、藤
     石灰/伊賀土、石灰釉、藤
     ※直火にはかけられません。
 製造  耕房窯(三重県伊賀市)
 制作  東屋
 寸法  径115mm × 高110mm(弦除く) ×
     幅150mm(注ぎ口含む)
 容量  約530ml
 価格  各9,288円


土瓶 黒飴   
土瓶 石灰   
 

〇 丸急須 後手

2015. 11. 30 [日用品:食卓]
 

常滑の急須

 後ろ手に廻して


 両手を後ろ手に廻してとか、手を後ろ手にしてとか言われたりすると、だいいちどこで後ろ手にさせられる必要があるのか、べつになにか悪さをされるとかそういうことではなくて本を読むたびに出てくる言葉なのだけど、後ろ手の中には「両手を後ろにまわす」と辞書を調べればそのように手を入れて書いてあるわけだから、わざわざ手を頭に付けて言う必要はないのではないかと訝しく思ったりする。なんて、おおかたどこか高いところから眼下を眺めながら後ろ手にしてそんなことをばくぜーんと考えながら立っていることがけっこうあって不意に彼女に後ろ手を掴まれてはっとして、先生みたい、とか言われたりして、さて、あれはどこだったか、清水の舞台だったか、雲仙とか、三瓶山の上だったか、そもそもその彼女がどの彼女かもわからないまま、こうやって後ろ手にして絵を見ていると、じつは絵を舐めた先に自分の記憶を見ていることが多い。『睡蓮』が睡蓮じゃないことになっているのだ。
 むかし、横浜の美術館でドガの彫刻の『踊り子』を見たときに、彼女は高ーい位置につんと後ろ手にして立っていて、気づけば私を含めて三人の客が同じく後ろ手に廻して彼女のこと見上げていたから面白かったんだけど、そのときの彼女とはもちろん『踊り子』のことである。
 後ろ手に廻すと胸を張る。孤独に鍵をかけて、その孤独を了解する身振りだろうか。それともつながる手の恋しさだろうか。どちらにせよおまじないをかけているのかもしれない。

                        
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〇 バターケースとバターナイフ

2015. 3. 30 [日用品:食卓]
 

山桜のバターケース、真鍮のバターナイフ

 こういったケースの場合


 四月に近づくと、ときどき目にするのが、アパートやマンションを下見するひとたちである。今の「わたし」の生活には、どんなカタチで、どのくらいのスペースが見合うものなのか、今の「わたし」はともかく、これからの「わたし」のことでもあるから、今現在持っているものを基準にするよりも、焼くなり捨てるなり一新した「わたし」を嵌めてみるほうがよいだろう、とか、もちろん財布と相談しながら、思案のしどころである。外見を気にするひともいれば、外見よりも中身だというひともいるし、新しいほうがいいというひとや、古くても気に入ればそれでよいというひともいて、カタチもサイズも「わたし」の心地のよさの判定はひとそれぞれである。だから仮に、何びとかと同居、ともなると、ますます選択の前で足踏みを繰り返す。なにも住まいにかぎったことではなく、たとえば私たち夫婦などは、ありとあらゆる選択を前にして、つねづね途方に暮れるばかりなのだった。
 散歩をしていると、目の前に車が止まって、後ろから降りてきた若い男女のふたりづれが、運転をしていたスーツのひとに促されながらそばの大きなマンションに入っていこうとするのだけれど、間取りの書いてあるらしい白い紙をひらひらさせている女の子のほうがすっと上を見上げるなり、すかさず音を立てて紙に目を落とすと、ちょこんと首を傾げて男の子の顔をまじまじ見るのである。ふたりは新婚なのかもしれないし、それより以前の、恋煩いなのかもしれない。何箇所ぐらい物色してきたのか、ひょっとしたら見過ぎて疲れてしまったのかもしれない。どこか重い足取りの、彼らがそのマンションに入っていったあと、私たちもつられて見上げてみて、いいところじゃない、なんて目を合わすのだけれど、あの女の子の顔には明らかに「外観が気に入らないし」と書いてあった。若いふたりの理想は交差しながら(ひょっとすると平行線をたどったまま探しまわっているのかもしれない)、見る前に跳ぶわけにもいかず、さて、どこで折り合いをつけるのか、これからの「わたしたち」の道のりは険しく、厄介な枝葉をぽきぽきと折りながらそれでもともに手を取り合って歩いていくしかないのである。
「生活のサイズ」を算出するのはむずかしい。けれども算段ぐらいしないわけにもいかない。身の丈だとか、標準だとか、いろいろな言葉の取り巻くなかで、心情はそれでもすこーし背伸びをしてみたくもなる。そもそも基準とか定番というものが、得てしてしっくりこないことのほうが多くなった気がする。平均値なんてもはや私の辞書から消えてしまっているし(最近、辞書そのものが見当たらないのだけれど)、ましてその基準やら定番とはいったいどの辺りで謳われているのかも見えてこない、ちりぢりの世間になってしまった。つながることが大手を振っているのは、それだけぶつぶつに千切れてしまったからである。手を振っても未だにだれも呼び戻すことができない場所もあれば、たまには手をつないで散歩する私たちがいるような、たわいのない場所だってある。
「小さいほうでいいんじゃない」
「でも、大は小をかねるっていうじゃないか」
 私たちはけっきょく何も買わずに、散歩と称して家に帰っているわけだけれど、ベッドカバーを買うにはきっちりベッドのサイズから算出できることだし、この期に及んで、小さいの、大きいの、という会話は生まれてこないはずだった。だって「十年もたてば、ベッドもけっこう大きくなるものなのねえ」なんてこともない。それなのに、店のひとに、セミダブル、ダブル、クイーンとか言われて、はっとして、なんだったっけ、とかになって、それでもふたりして、こんぐらい、とか、いやもっとあったとか、両手をいっぱいに広げて往生際のわるいところをひとしきり見せて、けっきょく退散したのである。
「さすがにカタに嵌まらないわけにもいかないか、ベッドカバーは」


                       
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〇 すき焼き鍋

2015. 1. 30 [日用品:食卓]
 

水沢のすき焼き鍋

 すきやき


 ある夕どきに、行きつけの喫茶店にいると、場違いに騒がしい一席があって、どうやら、だれかのスマートフォンを中心に、検索でもしているのか、あるいは写真か動画でも見ているのか、いっとき静かになったと思えば、とつぜんどっと笑いが起きたりで、その不連続な波に翻弄されながら、私はといえば、ふと、「中心」ということばの綾にひっかかってしまっていたのだった。私が学生のころ、仲間が集えば、さてその中心には何があったのだろうか、とか、あるいはもっとむかし、家族の中心にはいったい何が見えていたのだろうか、とか。ぼんやり霧の向こうに目を凝らして手を伸ばしかけるうち、不意打ちのようにさらに甲高い笑いが涌き起こって、瞬く間、まっしろく、なにも見えなくなってしまったのである。わかることといえば、あのころスマートフォンなんてなかったし、と溜息まじりに突いて出てきただけだった。
 ロラン・バルトの、日本を訪れたときの著作にこんな文章がある。たしかに街に中心はあるけれども、たとえば西欧でいう大聖堂や教会のような、ひとびとが集まっていく「特別な場所」とはちがって、日本のそれはとりわけ移動するための「駅」にあり、ひとびとの行き来する地点においてそれを「中心」と呼ぶにはあまりに移ろいやすく、「精神的には空虚」である。あるいは、ここ東京にも中心はあるものの、もはや傍らから「見えないものを目に見えるようにしたかたち」であって、やっぱり空虚なのである、と。たとえば、料理にも中心がない、という。日本人にとって食べることは、フランス料理のように食事の出される順序に縛られることもなく、「いわば思いつきのままに」、箸で「この色を選びとったりあの色を選びとったりする」。さらに、すき焼きを例に挙げてこうつづけている。「すきやきは、作るのにも、食べるのにも、そしていわゆる「語り合う」のにも、果てしなく長い時間のかかる料理であるが、(略)煮えるはしから食べられてなくなってしまうので、それゆえ繰り返されるという性質を持っているからである。すきやきには、始まりをしめすものしかない(略)。ひとたび「始まる」と、もはや時間も場所も、はっきりとしなくなってしまう。中心のないものとなってしまう。」(ロラン・バルト著作集7「記号の国」石川美子訳 みすず書房、より抜粋)
 話題の中心、ということばがあるけれど、かいま見るかぎり、かれらは、素材をただ回し見て、「話」の中心がないのかもしれぬ。つねづね「始まり」だけのようである。ひょっとすると、煮えていてもそのまま放置するのかもしれない。
「めし、どうする?」
「銀座にでも行く?」
 かれらは終始声高らかに店をあとにする、それから知らぬうち、あの「円い中心」を迂回するのだろう。
 テーブルの中心で、灰皿が燻っている。


                       
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〇 丸高盆

2014. 8. 14 [日用品:食卓]
 

無垢材の栃のお盆

 お月さま


 満月がより大きく見えることを「スーパームーン」と呼ぶらしい。日本語ではなんというか。「名月」に括っていいのだろう。九月にまた見えるらしい。月が地球にぐんと近づいてくる。もとより名月なら仲秋になる。
 ときたま、スーパーじゃないのに大きく見えることがあって、あれはどのひとにも大きく見えているのか、と思ったりすることがある。色もそうだ。赤く見えたりすると、みんな赤く見えているのか、気になる。そばにひとがいれば、同じに見えているか、たしかめてみる。「ほんとだ」と明るい声で返されると、なんだかうれしくなる。照らされて、満たされる。
 満月はふいに向こうからやってくるのがいい。だいたいそんなときは心がまあるいときである。


 この丸高盆は

 栃の木、一枚板でこしらえた高台付きの盆である。栃は軽量であり、変形を嫌うことから、家具や建材、楽器などにも使用される質実な材である。こと年輪の織りなす板目の美しさには定評がある。
 この盆は、木のかたまりをろくろで回しながら、その木に刃物を当ててまあるく削りだす「挽物」と呼ばれる技巧から生まれる。仕上げは磨きのみ。表面にはあえて塗り加工を施さず、無垢の光沢そのままにしてある。使っては拭う、拭っては使う、その繰り返しで木肌にはいっそうの色つやが与えられ、たとえ染みがついたとしても、それが年輪と交わりながら月日の深みとなって味わいを醸しだす。長持ちの尺度として、手と目でふれながら愛でる。かけがえのない道具になってゆく。
 膳とはいわないまでも、「丸高」と謳うとおり、たとえば畳の上にじかに置いて、盆そのままを座卓のように使ってみたい。

 商品名 丸高盆
 素材  栃
 製造  但田木地工房(富山県砺波市)
 制作  東屋
 寸法  径283mm × 高36mm
 価格  20,520円

丸高盆   
 

〇 印判豆皿

2014. 8. 6 [日用品:食卓]
 

波佐見焼の豆皿

 手塩


「手塩にかける、というが、その手塩とは手のひらにのせた塩のことらしい。その塩にちょこっと食べ物をつけては頬ばるのだ。ずっとむかしの小粋な仕種である。よって小皿豆皿の類いは手塩皿と呼ばれ、いわば手のひらの代用である」
「へえー」と、向かいに座る男が声を上げる。
 それから私は、
「おにぎり、だな」と、思い出したふうに言う。
「おにぎり? また話しが飛んだぜ」
「手許の塩にまぶされて、私は家内が握るみたいにカドのとれた人間になったらしい」
「うん、たしかにおまえはむかしよりか、丸くなった」
 男は見た目も大きくうなずくなり、のこりの蕎麦を啜る。私はいち早く食べてしまった。
「年のせいもあるが、家内の手腕によるところも大きい。手塩にかけられた結果、こうやってのほほんとしていられる」
「けっきょくうまい具合に転がされてんだな」口をもぐもぐ動かしながら、男は空いたほうの手のひらをなにやら転がすように小さく動かしてみせる。
「いや、そうではない」
「じゃあ弱味でも握られてんのか」
 男はこんど箸まで置いて、「こんなふうにぎゅっと」おにぎりを握る真似をしてみせるのである。
「ばか言え。うちはおまえのところとはちがって子どもがいないから、その分大事にされているだけだ」
 すると男は、
「ごちそうさま」と、飲み込むより先に手を合わせてほくそ笑む。「ああうまかった」
 この男とは、たまに会う。昼間から少し呑んだ。しめにそれぞれ天ざるを頼んだ。生姜を全部入れるかどうかで意見が分かれた。それから、薬味そのものに話がおよんで、その効用がなんやらと、話すうちにいつのまにか脱線していた。
「豆皿といやあ」男はかたわらの豆皿に目を向ける。「おれは金平糖だな」
 こんぺいとう。久しぶりに耳にしたような気がする。
 男は腕組みをして、空の豆皿を見つめながらつづける。
「受験のときにな。夜中になるとお袋のやつお茶をいれてくれるんだが、そこにかならず金平糖をつけてくれた。こいつにちょこちょこっとのせて、部屋まで持ってくる。舐めてりゃ元気になるから、ってさ。元気だからって大学に受かるわけでもないのにな」そう言うと、腕をほどいて豆皿をつまみ上げる。「こいつにきまって七つばかしだ。ラッキーセブンだと」
「そういえば、おまえのところ、そろそろ受験だよなあ」私は言う。
「そうだ。たいへんなんだぜ。というか、おれじゃないな、たいへんなのは」
 男はゆっくり豆皿を置く。その手が気になったか、開いてみる。
「そうか。手のひらだったのかあ」男はじっと見ている。
 私のほうからも、金平糖が見えた気がした。


 この印判豆皿は

 わさびに、しょうが、きざみねぎ、おおば、みょうが、それからごま、などなど、ひとつまみちょこっと、薬味は夏バテに効くという。食欲を促したり、食あたりを防いでくれたりと、枚挙に暇がないけれど、それらをのせる豆皿もまた、何枚あってもじゃまにならない。
 この豆皿は、いろんな紋の摺紙を、天草陶石の生地に一枚ずつ貼り付けては染めていく、むかしながらの手仕事でこしらえた印判豆皿である。小さいけれど手間ひまかけたりっぱな用の美だ。そのつど摺りによって、ずれたり、うすかったり、またとない偶然が個性の表れとなって、ひとつとして同じものがない愛おしさがある。わたしたちの手のひらみたいなものかもしれない。
 形と絵柄のちがいで、七つほどご用意した。どれも愛嬌があって、気の効く食の小道具。まずは手のひらにのせてみて、それからじっくり手をかけながらこまめに使っていただきたい。



                       
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〇 小鉢六角高台

2014. 3. 3 [日用品:食卓]
 

伊賀焼の器、耕房窯

 スラッシュ


 あれから三年になる。三年というのは「区切り」という言葉がともなって似合うらしい。
 私のところから隣町にある大型スーパーの大きなネオン看板が見える。今年の仕事始めから、煌々とその灯りがふたたび赤く光りはじめた。
 あの日にふっと消えた。それが三年目にぱっと点いた。何か問いかけのようだと思った。答えがひらめいて点いたのではない。それはただの記号である。
 昨日/今日/明日/私は/夜/ベランダにて/振りかえれば/食卓が/見える。


 この小鉢六角高台は

 伊賀小鉢のラインナップである。縁起のよい亀甲六角の高台、その上にちょこんと酢の物和え物香の物、「向付(むこうづけ)」として配すれば、膳の景色をますます色づけてくれるはずだ。
 東青山が扱う「伊賀の器」シリーズは、精製していない自然の土を作り手がじかに捏ねて、「たたら」「ろくろ」「型うち」という手法を用いながらひとつひとつ丁寧にこしらえてある。既成の型で成形しているものとはちがい、荒々しい土のまんま、その素朴な風合いには定評のあるところだ(伊賀土に関しては本頁、
「切立湯呑」を参考にしていただきたい)。さらに目を愉しませてくれるのが「釉薬」である。その絶妙な肌合いと艶は、この「伊賀の器」シリーズにおいて十種類もの肌展開をしており、今回の「小鉢六角高台」もまた、伊賀で採れる灰や長石を原料に「志野」「石灰」「黒飴」「呉須縁」「松灰」と銘打って五種類ほど揃えた。
 まず「志野」は、かの桃山から伝わる温かみのある志野釉を藁灰で再現したものである。「石灰」は、焼成によって無色透明なガラス質になるため素地の土そのものの趣を見せてくれる。「黒飴」は、伊賀に古くから伝わる透明な漆黒を映し出す鉄釉のことである。「呉須縁」は鉄絵で、伊賀で採れる<龍石>なる天然の鉄絵具と<呉須>を使って絵付けをした。さいごに「松灰」、これは、登り窯の燃料となる赤松の灰だけを使って、その灰が融けてしまうまで高温を保つと、澄んだ緑色に発色し、生地も硬質に焼き締められる。
 といった具合に粒揃いの個性が並ぶが、さて、色とりどりの肌をとりそろえ、御宅の食卓を彩ってみるのもいかがか。たまには小鉢で一品足してみるのもいい。

 商品名  小鉢六角高台(「伊賀の器」シリーズ)
 素材   伊賀土(石灰釉/黒飴釉等)
 製造   耕房窯(三重県伊賀市)
 デザイン 渡邊かをる
 制作   東屋
 寸法   径99mm × 高70mm
 価格   志野/石灰/黒飴 3,024円
      呉須縁/松灰   3,564円

小鉢六角高台 志野   
小鉢六角高台 石灰   
小鉢六角高台 黒飴   
小鉢六角高台 呉須縁  
小鉢六角高台 松灰   
 

〇 カップアンドソーサー

2014. 2. 18 [日用品:食卓]
 

猿山修のカップ&ソーサー

 カップアンドソーサー


 カップとソーサーの間には「安堵」がある。私のワープロがそう変換してきた。「アンド」なんてはじめて打ったかもしれぬ。不意に「安堵」が私の前に表れたのだった。頻繁に用いるコトバなのか、そう考えれば、常日頃の求めすぎる性格が表沙汰にされたみたいで、なんだか気恥ずかしくなったのだった。
 ときにカップは持ち上げられる。よってカップはソーサーから距離を置くことになる。たまにソーサーを置き去りにする。あわよくば遠い旅に出たっきり戻らないことだってある。それでもカップは、ふとした弾みに、ソーサーの手のひらへと帰っていく。
「ふしぎだ。」
 ソーサーは女性名詞でカップは男性名詞かな、そう思ったりして、私はカップをソーサーに戻すのだった。「アンド」とは、おしなべて「安堵」な関係である。あながち間違いでもあるまい。私は、誰かの手のひらでまんまと転がされている身上を、ぽかーんとソーサーの上に浮かべていた。
 カップアンドソーサー、アーンド私。何者にも咎められない三角関係を、お仕事そっちのけでふわふわと愉しむ昼下がりの私であった。



                        
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〇 おひつ

2013. 11. 25 [日用品:食卓]
 

木曽椹のおひつ

 飯の寄りどころ


 妻が台所で炊きたての米をおひつに移しかえている。米は湯気を上げて、踠きながらも愉しげに妻の操るしゃもじから転げ落ちる。妻はその上から、まるで米の歓声を塞ぐみたいに軽ーく布巾を被せて、ぱたんと蓋を閉める。それから、傍ら牛蒡のきんぴらを小鉢に盛りつけはじめる。私はテレビを消して食卓につく、
「じゃ、いただきましょ」と妻の合図にしたがう。
 私たちの夕餉は、いつも通りに手を合わせてはじまる。
 米はこんど、おひつから飯茶碗によそわれる。そのころ米は、汗がひいたみたいにやけに落ち着き払って艶っぽい。噛めば歯ごたえがいい、香りもたつ。もしも米に運動があるとすれば、どうやらクライマックスは釜からおひつへと納まるところのようである。
 今時分、おおかたのふるまいでは、おひつの動作はなくてよい。けれども、なくてもよい動作こそが米の潜在能力を余さず引き出しているらしい。寄り道のようで、それが本筋であることのほうが私たちの生活にはたくさんあったはずだ。私たちはそれを、「加味」を超越した、「醍醐味」、と言ってきたのではなかろうか。
 明くる日の朝、おひつの冷や飯は、ほくほくの焼き鮭と味噌汁に塩梅がよい。少々行儀がわるいが、二膳目は味噌汁に投入してさくさく搔き込んで、合掌した。


 このおひつは

 およそ樹齢100年、木曽の地に育った椹(さわら)という材の、「柾目」を使って拵えている。水気をよく吸い、そのくせ耐水性に秀でたこの材ならでは、炊きたての米を適度な水分に保ってくれて、米に歯ごたえを与え、旨みと甘み、ふくよかな香りを引き出してくれる。
「いちど、おひつにうつしかえる」
 昔ながらの「手心」を、ぜひ食卓に。

 商品名 おひつ
 素材  木曽椹(きそさわら)、銅
 製造  山一(長野県木曽郡)
 制作  東屋
 寸法  二合 径180mm × 高125mm
     三合 径205mm × 高140mm
     五合 径235mm × 高160mm
 価格  二合  9,720円
     三合 12,960円
     五合 16,200円

おひつ 二合    
おひつ 三合    
おひつ 五合    
 

〇 ジューサー

2013. 8. 19 [日用品:食卓]
 

天草陶石のジューサー、レモン絞り

 檸檬


 昼間、古本屋で檸檬を買った。あると思っていたのになかったからだった。女が持ち出したにちがいなかった。あのとき抱えて逃げたのだった。投げつけられてもしかたがなかったのに。
 持ち帰ったのは陽に灼けた檸檬だ。いろんなひとが握ってきた檸檬だ。あればそれでよかった。気が済むともっと遠くへ行きたくなった。それから外に出た。振りかえってみた。大きな音がしたような気になっていた。走って逃げていた。


                        
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〇 醤油差し

2012. 3. 31 [日用品:食卓]
 

たれない醤油差し

 だらだらしない。
 こゝろがけが、きもちいい。
 

 ごらんのとおり、わたくし「醤油差し」と申します。と、名乗ればきっと「あっ、そうそう、そう言われればたしかに」とおっしゃってくれるはず。ならば多くは語らずとも、といきたいところですが、わたくし「新顔」にはちがいありませんので、ここはあらためまして、ちょこっ、とだけ、ごあいさつを。どうも、はじめまして。
 なーんて、お辞儀でもすれば、やっぱりこの口もとに目がいきます?はずかしながら、たしかにおちょぼな注ぎ口、ですよね。たとえばほら、よく言うじゃないですか。ほんのすこーし傾けただけなのに、どぼっと出ちゃったとか。だらだら垂れたりして、しまりがわるいとか。「醤油差し」の分際でストレス溜めてどうする、ですよね。なにも、聞き捨てならないコトバに口をとんがらせて下向いちゃったわけじゃないんです。口はつつしみ、つつましく、下向きのこのカタチこそが、ひたむきさの表れだっただけのこと。だってわたくし、「醤油入れ」にあらず、あくまで「醤油差し」にございます。ちょこっ、とお辞儀がてら、おしょうゆを差すことがわたくしの役目。必要な分だけ差して戻せば、おしょうゆはひょいっ、とひっこんでくれて、口のまわりを汚しません。まして、いらぬ面倒などかけさせない。だらしのない格好はお見せしたくありませんので。「醤油差し」に大事なのは、こゝろがけひとつ。だらだらしない、切れがいい。これぞ「醤油差し」の誇りにございます。
 ところでわたくし、けっこう小柄なほうでして、いうなれば控え目。「食卓に、必要な分だけ」を信条にしております。「おしょうゆ取ってー」と、声がかかってはじめてお目にかかるていど。べつにいいんですよ、フルネームで呼んでいただかなくても。中身あってのわたくし、図体ばかりが大きいと、中のおしょうゆを無駄に酸化させてしまいかねない。それじゃー、身も蓋もあったもんじゃないでしょ。このくらいがどうやらちょうどいいようです。ときには、あっちにこっちに、移動もします。なおさら、手わたしやすく持ちやすく。ちょこっ、と食卓の上にでも控えさせていただければ、この上ないシアワセにございます。
 とはいえ、「ちょこっ、と」の分際にだって、「ずーっ、と」みなさんといっしょにいたい気持ちはあふれんばかりにございます。なにも、べたべたするつもりはもーとーございませんが、ただ、いつの日か、「定番」と呼んでいただければそのとき、多くは語らずとも、つかずはなれず、まっ、わたくしのこゝろがけしだいですか、ね。

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〇 お盆

2012. 3. 23 [日用品:食卓]
 

へら絞りのお盆、真鍮銀メッキ

 何を載せて、何処に運ぶか、ということ


 日常の中にあって、ふと目に附いては、はっとすること、といえば私にとってなによりも本棚に列んだ背文字、だろう。目に附く、というか、本の声が不意に耳に届いて立ち止まってしまうのである。たとえば、「絵とは何か」「ふたたび絵とは何か」「みたび絵とは何か」と、過去に読んだっきりしまわれていた棚の隅からこうも立てつづけに投げかけられては、なにも絵に限らず、はたと自分の今していること自体に「何?何?それはどういうこと?」と疑いを持ちかけられ、ひいては私がそこにいる理由までも問われたか、のように私のほうがぺらぺら繰られている気分である。背文字というからには、彼らは私に背を向けている。けれど、彼らはお隣同士、あるいはご近所同士で、常にひそひそ話しをしているのである。それをあるとき私が気附いてしまうだけなのだけれど。
「視るとは何か」「見るまえに跳べ」「春は馬車に乗って」「回転木馬はとまらない」「ダンス・ダンス・ダンス(上)」「ダンス・ダンス・ダンス(下)」エトセトラ、エトセトラ。私はいてもたってもいられなくなり、なかでも声高な者に手を伸ばし、肩を叩くようにしてこちらを向かせ、いつのまにか腰を下ろしてその者の腹を探るに至る。するとたまに、日常の壁に小さな穴が開くのが見えて、そこからほんのすこしだけれど外が見えるときだってある。
 あたりまえにあることが、折に触れて、あたりまえではないことになるのが日々の暮らしである。特別なことをしようとしていなくても、あるとき「日常」という名の棚にしまわれたものや、ことを、ふと掬い上げて掌に載せてみると、気附けばそこには「光り」が載っていることが多い。であるなら、何処にそれを運ぶかはいたって明瞭である。
 日々は、その「光り」をもってしても「暮れる」。水を掬って運んでも指の間からこぼれゆくようである。けれど、その「光り」をもって「暮らす」のだ、とすれば、背を向けてばかりもいられないな、と思う。「光り」が届くより先に、「光り」は届けるものでありたい。


 この盆は

 盆は、掌の延長である。掌と同じように、盆で「運ぶ」のもまた、「大事」の表れである。
 この盆は、「へら絞り」でこしらえた。「へら絞り」とは、こしらえたいものの型(かた)を動力で回転させながら、「へら」と呼ばれる道具で素材(ここでは真鍮である)をその型に押しつけて変形、成形させてゆく加工のことである。素材のやわらかさ、あるいは固さを見極めながら、微妙な力の入れ具合でカタチを起こすが、その研ぎすまされた感覚を体得した職人だけが「逸品」に「絞る」ことができる。のちに銀メッキが施され、仕上げは「ヘアライン」である。ひとつひとつ、目の細かいやすりで磨き上げ、表情を曇らせることで鏡面仕上げよりもやや酸化を遅らせる手はずのほうを選んだ。理由はひとつ。たとえば掌は、ひとやものに接するごとに、顔のように表情を浮かべ、あるいは皺を刻むが、この盆もまた、使い込めば銀は燻され飴色にかわり、ますます味のある表情をこしらえてくれるのである。
 作り手から使い手に、その手はさらにつぎの手へ。先がたのしみな「顔の見える」盆である。

 商品名  お盆
 素材   真鍮、銀めっき
 製造   坂見工芸(東京都荒川区)
 デザイン 猿山修
 制作   東屋
 寸法   径290mm × 高20mm
 価格   22,680円
 ※ 写真は、左から右へ「経年変化」のようすです。

盆    
 

〇 トスカーナのレース

2012. 2. 12 [日用品:食卓]
 

トスカーナのリネンを使った白いレース

 明かりを灯す、ということ


 お店に入って、あ、いいな、と、ものを指して思うのは、たとえばそれを家に持ち帰るところからはじまって、思い描いたところに置いてみる、あるいは使っている「わたし」のことを想像してみることにより、じつは「わたし」の内側が、その瞬間、ぱっ、と明るくなっていることに気がつくことである。気に入る、ということは、たしかにそのものがほのかに明かりを灯す光源のようなものになっていて、「わたし」を照らしはじめ、訴えかけてくるものだけれど、ほんとうにそのものを持ち帰った場合には、そのものがじっさい家のなかを照らすのではなく、どうやら「わたし」のなかが照らされて、からだはシェードのように「わたし」自身が光りとなって家を明るく照らしているのだった。なにも買い物や、ものにかぎったことではなく、目には見えないもの、たとえばコトバだってそうだ。「こころから」おもうということ、「こころから」言うということ、などなど、これこそが、ひとがひとを照らしだす明かりであり、こころが光源なのである。
 妻はときどき、テーブルにまずはコースターを敷いて、それから飲みものを置きにくることがある。さほど水回りを気にしなくていいことから買ったテーブルなので、じかに置いていい。だからそれは、たまーにおこるハプニングのようなものだ。そのテーブルが瞬く間、そこにスポットライトが当たったかのように浮かびあがってくる。つぎにそれがコップの水であっても、その日にかぎっては、世界でいちばんの水であるかのように、きらきらしはじめる。なにより、妻のその振る舞いに光りは宿っている。ほかに照らし出したい何かが妻のうちにあることは明白ではあるけれども、たとえば何かいいことでもあったのか、それとも聞いてほしい話でもあるのか、それより、ただの気まぐれなのかもしれない、そんなことぐらいしか思いつかない私は、ふと気がつけば、しらずしらずに照らされており、魔法にでもかかったみたいに私のなかから晴れ間が広がっていくのだった。
 今に思えば、私はたしかにそういった場合、どこかきげんがわるかったり、こころここにあらずだったりで、つまり、彼女にしてやられている、というか......、こころから、感謝している。










                       
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〇 木箸

2012. 1. 13 [日用品:食卓]
 

輪島の木地、四十沢さんの木箸

 味の外の味、ということ


 古いことばに「味の外の味」というのがある、とどこかで読んだことがある。盛りつけられた料理の味わいは、その外側にあるふんいきや、うつわの表情、うつくしさをも「味わう」ことではじめて料理を「味わう」ものである、ということらしい。けれども、たんにすてきなうつわをそろえ、ふんいきづくりにいそしむ、ということではないはずだ。わたしたちには「一家団欒」がある。それだけで「味の外の味」はじゅうぶん事足りる。家族で囲む、家族でつまむ、家族ひとりひとりがそのささやかな幸せを噛みしめることを願って、食卓はゆたかな景色を生んでくれる。


 この木箸は

 たとえば二本で一対の箸のように、誰かがいてくれるから、団欒、つまりはいつも満面、まあるくなれる。
 さてこの箸は、輪島の塗りものの芯になる木地を作りつづけてきた「木のスペシャリスト」四十沢(あいざわ)さんに拵えてもらった。木地そのまま、木肌そのまま、いわゆる「スッピン」の木箸だ。そのかたちは四角四面の面持ちよりも、ほんのすこし丸みを持たせてもらったことで、指先と口もとの当たりのここちよさが自慢である。いくつもの工程を繰り返しながら一本ずつ丹念に磨きこまれたなめらかなみかけと、うらはらに、食べものをすべらせずしっかりやさしくつかまえてくれる、正真正銘芯の通った木箸。
 四十沢さんが引き出す木の素肌の力、いちど手に取って、味わってみてください。

 商品名 木箸
 素材  写真左から欅(けやき)/黒檀(こくたん)
     /鉄刀木(たがやさん)
 製造  四十沢木材工芸(石川県輪島市)
 制作  東屋
 寸法  長さ235mm × 幅7mm
 価格  黒檀  2,571円
     鉄刀木 2,468円
     欅   1,852円

木箸 黒檀    
木箸 鉄刀木   
木箸 欅     
 

〇 2012年の縁起もの

2012. 1. 9 [日用品:食卓]
 

指物の杉箱と六角箸置のセット

 あけまして


 2012年、のっけから突然ではございますが、
 問題です。この箱をそおっとあけまして、さて何が入っているのでしょうか。




                                                       
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〇 花茶碗

2011. 5. 4 [日用品:食卓]
 

立花文穂の花茶碗

 僕らはただただそれらを大事に使うしか、
 手だてはないのだった。
 

 手を合わせて「いただきます」という。そのことがこの上なく「仕合わせ」なのだ。
 私は今、お茶碗でごはんを食べている。こわれるものによそい、包むようにして手に持って、それから口に運ぶのだ。当たり前の動作がいとおしい。かちゃかちゃ、という音が、いとおしい。気をつけて洗い、ふせて乾かし、また明日も使うのだ。
「こわれるものはかなしい。だから食器とか、こだわらないようになった」
 あのときそう言った知り合いは、いまどうしているのだろうか。
 だけどお茶碗で食べるごはんはおいしい。そのことだけはかわることなどないだろ。なあ。

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